昭和56年2月11日 朝の御理解            【 末永信太郎 】

御神訓一 信心は本心の玉を磨くものぞ



 信心は本心の玉を磨くものぞやと、ありますね。今日私は、御神前で、大坪栄四郎という事を頂きました。私どもの四番目の息子の名前ですが。この人が生まれる時に、栄える城と頂いたんですよ。あの、実際、名前には、栄える四つの郎、栄四郎とこうありますけれども。お知らせに頂いたのは、栄える城と頂いたんです。大坪栄四郎と。その、大坪栄四郎という字をですね、この大という字、大という字を、大きく頂いてね、そして小さく、坪、栄四郎とこう頂いた。どういう事だと思いますか。

 どういう事だろうかと思うておりましたら、イメージアップという事を頂いたんです。ね、どうぞ今日は、この二つの事、私が今日お知らせを頂きました事を、信心の、まあ、姿勢ともし、心掛けともさせて頂いて。いよいよ、信心を進めて行かなければならんという事です。これまでおかげを頂いたから、このおかげ一つを受けたからで終わるものではありません。

 もう、限りない、もうそれこそ、この世、あの世を通しておかげを受けて行かなければならんのでございますから、信心もやはり、ね、もう限りないものへの挑戦です、信心は。言うなら、信心は本心の玉を磨くものぞやとある。ですから、もうこれだけ磨いたからこれで良いという事はありません。もう、限りなく、言うならば磨いて、磨いて、磨く、磨ききって行くという事が大事です。ね。

 どんなに素晴らしい質の宝石でも。ね、磨かなければ、その束の光は出ません。人間がいかに、ね、神の分身、生神の性根を持っておると申しましても。昨日のお月次祭の時のお説教でも申しましたように、これは昨日のお知らせですけれど。今のテレビで、オレンジジュースの宣伝をしてます。小さいよちよち歩きの赤ん坊が、こうジュースを飲んでおる宣伝を、皆さんもご覧になるでしょう。

 あれに、それこそ軽快なリズムに乗って歌うように言っておる言葉の中に、太陽の子、オレンジの、オレンジの光、何とかとこう申しておりますね。私はそれを頂いた時に、いわゆる太陽の子である。天地の子である。天地の分身である。天地が親神様なら、私どもは氏子であり、小神である。そういう本質的なものを頂いておるのですけれども、私どもが磨くとことは反対に、それこそ自分の我情、自分の我欲をそのままに剥き出しにして、言うならば生きて来た私ども。

 ね、ですから、その本質的、神というものは、その、だんだん性が変わって来ておる。もう、垢に汚れ塗れておる。ね。例えば、何でもそうでしょう。布なら布でも、汚れたまま放ったらかしとったら、その汚れから性が変わってしまうでしょうが、布の性が。ばってん、こりゃ、ぼんびりびり破れるごつなった、もう性ん変わっとると言うでしょう。人間も同じ。人間の面しとるだけ。もう、それこそ人面中心。

 恐ろしいような心までが育って行くのです、どんどん。エスカレートして行くです。ね、悪い事をし出したら、もう限りがない。もう、悪い事を悪いことを思わんようになる。と、いうような浅ましい事になって来るのです。だから、信心とはそういう、私どもが信心の教えによって、いよいよ本心の玉を磨いて行く。しかも、それは限りがない。私は今日、大坪栄四郎と頂いた事は、神様が合楽に掛けられる願い。

 ね、合楽に御神縁を頂いた一人ひとりに掛けられる願い。お願いをして、おかげを頂きまして有り難うございますで終わるものではない。限りない、言うならばおかげへの、まっ、進展であると同時に、限りない本心の玉を磨くという事に、もう、まっ、掛けなければならん。もう、すべて一切が本心の玉を磨く材料として頂かなければならない。

 そして、神様が下さろうとしておる、この大という字の、大きな大という字、大という字がです。ね、神様が下さろうとしておるおかげ。だから、それに釣り合うた坪であり、栄えるであり、城でなからなければならん。大という字を大きく書いてるです。坪、栄四郎というのは小さく、小さくある。

 おかげを頂いておる、合楽では大変なおかげを頂いておると言うても、まあだ、神様の目からご覧になると、ね、私どもの言うならば頂いておるおかげというものは、まあだ、ほんのわずかな事である。神様が願いとされる、その大という字に、坪、栄四郎も釣り合うたようなおかげを頂いた時、初めて神の願いが成就する。合楽に掛けられる願いが成就するという事ではないでしょうか。

 合楽にご参拝をされる、御神縁を頂かれる皆さん。もう、不思議な不思議な、皆さんが、あの、拝詞を奏上されます時に。ね。もう、とにかく金光教の信心に縁を頂いたという事。しかも、合楽にご縁を頂いたという事は、もうそれこそ不思議なる事であります。不思議なる、それこそ御神縁によって、合楽との、言うならば結ばれがあり。ね、そこから合楽と交流するようになり。合楽で受けておる同様のひれいも、おかげも、皆さんの一人ひとりの家庭の上に、心の上に頂けれる事になっておるのである。ね。

 ですから、私どもが頂いておる、その信心というもののイメージが、ね、何かのその機会にアップされて行かなければいけません。ね。この前、寒修行開けに、講師の先生がお話になったように。ね。まあ、これは例えばの話ですよ。先生が仰ったという、私がそれをそう思うておる訳でもないのですけれども。こちらの先生は、ね、徳者。徳者というのは、人が徳を受けたというのが、徳者である。

 徳者じゃない、ね、神徳そのものだと、言われたという事を聞きました。ね。だから、確かにこれはね、私だけのものじゃない、皆もそうなんです。お徳を受けると言うけれども。ね、受ける示現からもう一つ向こうにはです、ね、もう貴方は御神徳そのものだと。自分でも思われ、人からも思われるようなおかげを受けなきゃいけんです。なぜかて、神の言うならば生神として、神としての、実は本質的に言うとそうなのだから。ただ、私どもの我情我欲が、言うなら似ても似つかないものになっておるのが私どもである。

 ね、そこに気付かせて頂いてです。ね。信心の光が燈る、自分の心の中の隅々までが光に光り輝き出される、光りだされる。暗い間は分からなかったけれども、光が燈ったら分かって来た。ここが汚れておった、ここが乱れておった。ここが曲がっておったという事が、自選?されて行く。ね、改めていく。ね、そして、それこそ親鸞と、(べんげんですね?)の、お話じゃないですけれども。

 べんげん?という山伏が、親鸞を狙って、一晩中その命を狙ったけれども、どうしても、それを討ち止める事が出けなかった。その、親鸞のお徳に敬服して、お弟子入りを願って頼んだというお話。ね、自分が命を危めようとまで思うた人の弟子になった。そして、五年経ち、10年経つ。ある日、上人様が外出しておられた訳ですね。だから、それをお迎えに出た。そして、その山道ずたいにお迎えに出た時に、ちょうど、10年前に師匠親鸞を、ね、弓で射おうと思うて待ち受けておった時の事を思うた。

 そして、唄った唄が。ね。この道も、山も昔と変われど、変わり果てたるわが心かな、と唄ったと。10年前にそれこそ人殺しをしようと思うた自分が、10年間の親鸞様のお弟子になって、仏の道を極めておったら、それこそ、自分で自分の心が拝みたい事になった。信心とはそうだと、私は思うです。だから、限りがないです。ね。汚れ果てておった、恐ろしいようなその心がです。ね、自分で自分の心が合掌したい。

 教祖様も、十年と信心が続いたら、我ながら和賀心を奉れと仰せられる。その、十年と続いたらというのがです。いや、信心は本心の玉を磨くものとして、十年でなからなきゃならんのです。10年間、磨く事に勤めたら、誰でも、ね、本質的に神をここに頂いてるんですから。それが、磨き出されて来るんです。ね。例えば、その講師の先生が言われたという、合楽の先生は徳者というのではなくて、もう神徳そのものだと。私はそうとは思いませんけれども、改まりに改まり、磨きに磨きさせて頂いとる間に、時々思うことがある。

 ははあ、私と天地の神様も同じだなあ。天地の神様が思いよんなさる事が私の心に思えるという事は、同質のもんだなあという風に、考えられる事がございます。だから、なら、そういう先生を頂いておるという事の、なら、親先生に対する、言うならばイメージというものが、頂くとアップされて行かなければいけんのです。ね、でなければ、どういう事の中にあっても、親先生の祈りの圏内にあるのだから、大丈夫という事になって来ないです。ね、親先生の祈りの中にあっての事だから、神様の御都合に違いはない、これも神愛に間違いないと頂けて来るのです。

 信心は本心の玉を磨くものぞや。ね。だから、これが、ただ言うておるだけではいけません。それが、磨かれに磨かれて行くに従ってです。ね。自分というものが拝めれる自分。ね。自分の光に、言うなら家族中が輝き出す。自分の周辺が助かりだす。というようなおかげ。そういう心の状態こそ、あの世にも持って行け、あの世にもまた、喜びの御霊、安心の御霊としておかげの頂けれる精進を、私どもは今ここで、このようにある間に頂き、そして、分かっておかなければいけない。

 神様が下さろうとするのは、今日、私が御神願に頂いた。もう、大きな大の字に釣り合うた坪であり、栄であり、城である。けれども、実際頂いておるおかげは、その小さい小さい坪、栄四郎である。これに、この大という字に釣り合うたおかげ。神様から頂いておる、言うならば本心の玉というものがです。ね、もうそれに相応しい私ども、それに相応しい幸せ、おかげを頂いて行きたい。そういう願いを持っておりますとです。ね、何かの機会にいつも自分の思うておった神様、または親先生、取次ぎ者。

 それに対するイメージが変わってくる。こんな素晴らしい神様を頂いておるんだという事が分かって来る。なるほど、オレンジ色の光にいつも包まれておる私ども。なるほど、私どもは太陽の子だということが、分かるのです。ね。そういう自覚が本当なものになって来る、人間の幸せを頂きたいと思うですね。どうぞ。